ユーゴー広場から20分。ようやく目的地の凱旋門に到着しました。偉大な姿は高台のエトワール広場にマッチします。

 正面にまわるにつれてアーチに刻まれたレリーフが見えてきます。アーチの下では第一次大戦の無名戦士の墓に炎がたかれ、いつも周りには花が添えられているのですが、そんな光景もここからでは圧倒的な交通量に阻まれて見ることができないでいます。

 凱旋門内の見学はシャンゼリゼを渡った所にある地下通路からアプローチしてくださいね。
 では最後にこの凱旋門の歴史を紹介して終わりにしたいと思います。「またか・・」と言わずもうちょっとだけ付き合ってください。

 凱旋門建設の提唱はナポレオンによって発せられました。目的は? もちろん彼自身の戦勝凱旋を祝するためにです。
 この時1806年。ナポレオンはヨーロッパ各地で連戦連勝。列国の4度に渡る対仏大同盟も彼の破竹の勢いには歯が立ちませんでした。

 しかしナポレオンの攻勢もこのあと徐々に衰退の一途をたどることになります。彼がフランス皇帝に即位してからは彼のモノポライズに対して各地で反抗に合う羽目になります。

 そして1810年に行われたモスクワ遠征の大敗北ののちに一度は皇帝退位に追い込まれますが、1815年には幽閉先のエルバ島を脱出して再び帝位に。ワーテルローの戦いで起死回生を図りますが、イギリスなど5カ国連合軍に降伏。大西洋沖のセント=ヘレナ島に追放され、21年にその激動の人生を閉じることになったのです。

 ナポレオンの略歴を紹介してきましたが、実はまだこの時凱旋門は完成していません。彼は終に自身の戦勝を凱旋門で祝することができなかったのです。完成したのは1836年、ルイ=フィリップ王によってで、ナポレオンの提唱から30年後のことでした。

 1840年にナポレオンの国葬が決まって、彼は柩に納められてこの門をくぐりました。そして時は下って第二次大戦真っ只中の1940年6月、凱旋門を戦勝行進したのは、ヒトラー率いるナチス・ドイツの軍隊だったのです。
 ナポレオンは亡骸となって、そして彼の時代からずっと敵対関係にあったドイツは戦勝祝典としてこの門を通過したという事実は、ナポレオンにとってはあまりにも皮肉な結末だったかもしれませんね。

 これでほんとに最後の余談。先にも触れましたがこのエトワール広場から延びる12本の大通りの内、Wagram、Friedland、Ienaはナポレオンの戦勝地の名前が、Marceau、Foch、Carnotは彼を補佐した将軍の名前がつけられています。凱旋門の内壁には更に詳しく戦地、従軍将校の名前が刻まれています。

 凱旋門正面右手のレリーフはフランソワ=リュードの傑作「ラ・マルセイエーズ」です。このレリーフはフランス革命の時の民衆の決起をデザインしたもので、当時歌われていた民衆軍歌は今はフランス国歌となってやはり名前は「ラ・マルセイエーズ」。

 凱旋門の建つエトワール広場は正式には右の写真にあるように、第二次大戦の英雄シャルル・ド・ゴール将軍の名前をとっています。振り返ってみれば、18世紀後半の革命期から20世紀半ばまでフランスが経験した様々な戦争の歴史がここに凝縮しています。

 「兵どもが夢の後」 目を転じれば北西の方角には新興ビジネス街ラ・デファンスの新凱旋門が、南西の方角にはコンコルド広場まで4キロに及ぶ大繁華街シャンゼリゼ大通りが延びています。
 今ここには、世界中の人がそれぞれのパリを楽しんでいる姿だけがこの広い、青い空の下にあります。

 さてさて、おなかも減ってきましたね。シャンゼリゼでカフェにでも行きましょうか?
 (終わり)




82番バスでパリ観光 路線図
(所要時間:約1時間30分)